自分の感情は自分のものでしかないのに他人が関与しているように思ってしまうのはどうしてだろう。
アドラーが自分の課題と他人の課題を切り離して考えるようにと言っていて、それを知ってから意識するようにしているけれど日常のやりとりは結局期待と裏切りの繰り返しだ。
自分がこういえば相手はこう返してくれるだろうと思って会話している。
買い物や外食、公共交通機関、役所、社会的な場面ではほぼデフォルトの会話が繰り広げられる。ここで客側が店員や職員の態度が良いに決まっていると思い込んでいるとそうでなかった時にイライラや怒りが沸き起こる。
私は役所が嫌いだが、杓子定規な答えしかできず、応用が利かないことが多いと思っているからだ。だいたいそれでケンカ腰になるし、サービス精神のかけらもないなと思って終わる。ここでそうでない人に出会えるとこの上なくハッピーな気持ちになる。役所大好き!となるわけだ。
民間の場面だとできないことでもいったん検討しますぐらいは言ってくれることが多い。これも偏見か。なので、ダメダメと言われると途端に民間のくせに!とイライラする。
要するに自分の中で相手に対して想定していることを期待と呼ぶならば、はじめての人や場所でない限り常に人は期待しているわけだ。
そして相手はそんなことは関係ないので普段通りの自分の接客をするので、勝手に期待外れと烙印を押されキレられるという理不尽が起こる。前提として社会人としてのマナーや常識はクリアしている人の話だ。私は何でもやってみましょうと言いたいので、できないことでも安請け合いして後から信用を失うのでそれはもっともたちが悪い。
人は期待をもって人にあたり、相手は期待に応えようと返すもしくは期待に応えられないことを示す。つまり何らかの期待、までいかなくても相手の反応を予測して接することが多いのではないか。
グループホームで利用者さんに呼びかけられて期待されている動きや返答ができない時、いちいちもやもやするのが本当に嫌いだ。話しかけないでほしいと心底思っているが、物知りな上に親切に対応するのでみんな話しかけてくれる。それでもいつでもなんでもできるわけではないので、対応しきれない時にはわざと忙しいオーラを出したり、つれなくしてしまう。求められていることがわかるだけに、自分で操作しているくせに自分で嫌な気持ちになる。こういうのを感情労働の闇というのだろうか。
家族や親友、恋人など近い人にはさらに期待が高まる。自分の気持ちや状況を伝えてもいないくせに、自分がこういう気持ちなんだから相手もこう返してくれるだろうと勝手に想像して、思ったとおりの返事じゃない時に「なんだよ!ちっともわかってないじゃん!」と勝手に怒ったり悲しくなったりするのだ。
期待値が高いほど思った通りの返事が来なかったときのダメージは大きい。
なので最初から期待なんてしないほうがいいのだ。人を誘う時は断られる前提、お付き合いは別れる前提、植物を育てるときは枯れる前提、お出かけの予定は崩れる前提、って思っていた方がなにかと楽。
以前は断られると自分が否定されているみたいですごく嫌だったが、さすがに今ではそんなことはなくなって、あ、都合があわなかったのねと思えるようになった。私の誘いを断るなんて!っていうおごりがあったのかもしれないし、自分の自身の無さがでていた気もする。
明日久しぶりに娘に会うのだが、嫌でもいろいろ想定してしんどい。
でもお昼を一緒に食べ、3時には帰ると先に言ってくれているので彼女は親切だと思う。でもお昼は私の作った油淋鶏が良いと言っていて、その意図を考えてしまったりする。これから関係が良くなる兆しなのか、最後だから食べといてやるかという事なのか…
あーこういうのが嫌なのだ。私がこんなことを考えているのは親友にラインをしただけなのでそれ以外は誰も知らず、明日になればそんなことは出さず普通にママとして明るく接して笑ってバイバイをするのだ。悲しい。
期待して良いほうに考えると違ったときのダメージが大きいので悪いほうに考えて無になって寝よう。

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